ごうんごうん、ごうんごうん。
洗濯機の荘厳な音が静かな朝の食卓に響く。二人は慣れた様子で、食後のコーヒーを嗜んでいた。
底が見え始めたマグカップの中を覗き込みながら、ヒルダは次のように呟いた。
「そろそろ、名誉申請しない?」
スザクは新聞を眺めていた視線を「何事か」という目でヒルダに移した。一方、ヒルダは残りのコーヒーをぐっと飲み干して、マグカップを皿の傍らに置いた。
やっと視線が交差することになり、スザクは掠れた声で小さく「今、なんて」と呟く。開けっ放しの窓からは少しひんやりとした風が入り込んだ。起き抜けでふわふわなハニーブロンドの髪が小さく揺れる。
「あんた、ずっとこのままでいるつもりなの」
と、無感動にヒルダは付け足した。
発育途中の小さな手は痙攣するように震えている。スザクは混乱していた。今、この人は一体何を言ったのだろう。
名誉ブリタニア人になれ、とそう言ったのだろうか。
殆ど毎日、租界からゲットーへ時々食料や日用品を持ってきてくれる恩人。
時折酔っ払って帰ってくるから、既に第二の家と化している。
翌日は二日酔いのせいでなかなか起きてくれないから、とりあえず10時までは寝かせてあげて、そして起こす。
朝食をもてなして、他愛のない会話をして、彼女が自宅に帰り、そして一日が終わる。
今日も同じパターンで一日が始まると思っていた。
なのに、
ガタンッ!
イスが大きな音を立てながら後ろ向きに倒れる。
自分よりも高くなった目線に、ヒルダは怯むことなく真っ直ぐに応えていた。その視線が痛くて、スザクは強く目を細める。
「……うして…?」
「何が」
「いまさら、そんな…!」
唇が震えているせいで、声が頼りない。いつも落ち着いている彼がらしくもなく動揺しているのを横目に、恩人は「今更じゃないわ」と切り返した。
「そろそろ潮時なのよ。頼り切りってわけじゃないけど、今は私が生活を庇護している状態なのはわかっているでしょう。別に私は、スザクが働きもしないぐーたらだって言ってるわけじゃない。ブリタニアの会社はなかなかイレブンを雇おうとはしないわ。雇ったとしても、信じられないくらいの低賃金。それに、まだ子供のあんたを雇ってくれる会社なんてない。だからこそ、私はあんたを途中で道端に捨てるようなことはしたくない。するつもりもない」
「…意味がわからない」
顔を俯けるスザクに、ヒルダはふわりと笑った。
「租界で一緒に住もう、スザク」
俯いたまま、翡翠の瞳は大きく見開かれる。ゆっくりと、ゆっくりとした動作で顔を上げ、目の前の存在を視界に捉えた。ヒルダはもう一度、同じ言葉を口にした。
「私と一緒に住もう」
は、は、とスザクの口が酸素を求めるように動く。やがて肩は震えだし、顔をくしゃりと歪め、身体に憑こうとしている悪魔でも振り払うかのように、大きく頭を左右に振った。緑色に包まれた瞳孔は恐怖と絶望に伸縮を繰り返した。頭の中で目まぐるしく回る過去の情景。幸せだったあの頃。何も知らないでいたあの頃。まだ自分は日本人だと誇れていたあの頃。その宝物さえ、つまらない、無垢で、幼稚な理由で壊してしまった罪。腹に刺さったナイフを抱くようにして背を曲げる父。呻きながら呼ばれた名には憎悪か、苦痛か、どちらもかが混ざっていただろう。
租界入り、名誉ブリタニア人になるということは、“元日本人のイレブン”という名をも失うということだ。名などどうでもいいではないか、と言われるだろう。事実名誉ブリタニア人であれ、元ナンバーズに対する風当たりは甘くない。ブリタニアの国是故、きっとこれからもそれが改善されることはないだろう。しかし、スザクにとってそれが問題というわけではなかった。
もう日本人と名乗れないのなら、せめて、イレブンと。そんな浅墓で何の徳にもならない、否、民族としての矜持は守れるのだろう、とにかく、スザクはひたすらそれを欲に従順な亡者のように抱き締めていた。しかし、この少年にとってそれは矜持を守るためではない。
無理だ、そんなの、できるわけがない。その権利がない。頭の中で拒否する自分自身の声が響く。それでも喉を通してそれが音になることはない。とうとう涙で視界が滲み、スザクはダイニングを飛び出した。短い廊下を走り、靴も履かずに、裸足のまま玄関のドアを開け、まだ少し肌寒い外へ飛び出した。
コンクリートの地面を走り、団地の階段を上へと駆け上がる。ただ我武者羅に、息をすることも止まることも忘れるくらい、我武者羅に。
そして辿り付いた屋上のフェンスに勢いよくぶち当たって、手が白くなるくらい網状になった針金を握った。
「あああああああああああああああああああああああ!!!!」
子供の悲痛な叫び声を聞いて、下の階の部屋で取り残されていたヒルダは、寂寥に目を閉じた。