歴史上に残る哲学者達は常に人の生死について次のように表現した。人は生まれながら死に向かっていると。行き着く先は結局死しかないのだと。
そんな難しいこと言われてもわからない、という顔をした八年前のお前。人は、何か大切なものとか、目指すものがあるから頑張って生きているんだと、言い切ったお前。覚えているか、スザク。お前はあの頃何も知らず、無垢で、無邪気で、いつも俺達兄妹を救ってくれた。力になってくれた。
そんなお前に、俺は一体何をしてやれただろう。傷つけることしかできなかった気がするんだ。いや、そうなんだろうな。お前に嘘をついて、お前の大切なものを傷つけながら、俺は生きてきた。お前は…いいや、お前は何も悪くなかった。お前は、スザク。お前の人生を、最大限に利用して見せた。誰も巻き込まず、己だけを犠牲にして。俺には、決してできないことだ。だからお前が羨ましくもあり、嫉ましく、誇りに思う。
「気持ち悪いな」
ゼロの仮面を手に、スザクは笑った。
「何か言い残すことはないか、と尋ねたのはお前だろう。…全く、お前は本当に、やな奴だよ」
正装の白い肩を竦めて、目の前の“ゼロ”に扮装した“枢木スザクだった男”を、しっかりと目に焼き付けるようにルルーシュは瞬きを恐れた。同じ服を着ているはずなのに、物腰が違うだけで、こうも別人に見えてしまうものなのか。いや、それはきっと自分達が中身が誰であるかを知っているせいかもしれない。
「お前がそんなの着てるなんて、違和感ありありだな」
「着こなしたくないよ。…いや、それでも着こなさないといけないんだったね」
「ああ。約束は、守れよ」
ルルーシュも。
緩く微笑んで、スザクはゼロの仮面を顔面に覆った。これで、枢木スザクという男は、完全に死んだことになる。ゼロは象徴。民の前に仮面の下を一生晒すことなく、その一生を、全て世界に捧ぐ。世界が彼に救済を求め、彼は世界に応え続ける。その命の炎がかき消えるまで。
まさか、己の作った偶像に己が殺されるとは、あの頃は思いもしなかっただろう。ルルーシュはおかしくなって、口元が引き攣った。
「…あとでな、“ゼロ”」
「えぇ、悪逆皇帝ルルーシュ殿」
変声機を通して聴こえる声は、一年前のゼロとなんら変わりない。口調も、おかしいくらい、自分とそっくりだ。
彼は、まさしくゼロだ。
ルルーシュは更に笑みを濃くした。
「お前、演技上手くなったな」
無様に壇上を転げ落ちる姿は、なんと滑稽な最期か。
スザクは、否、ゼロは無慈悲に妹姫に抱かれながら息を引き取ったルルーシュ・ヴィ・ブリタニアを見下ろしていた。
あの時、倒れていく身体を抱き止めていてやりたかったと思うのは、まだ自分に良心が残っている証拠なのだろう。落ちていく背中に、らしくもなく手を伸ばしそうになって、剣に着いた血糊を振り払う振りをして誤魔化した。
仮面についた血痕は、風化し黒く染まっていく。皇帝の政治に恐れ戦き、反感を抱いていた組織が、コーネリアの指揮の下、ブリタニア軍を抑えていく。民衆も協力し、公開処刑を控えていた反逆者を解放していく。ナナリーとルルーシュに近づくものは誰一人としていない。
しかし、丁度道路の中央から歩いてくる人影を見つけて、ゼロは溜息をついた。
コーネリア・リ・ブリタニア。横に、紅月カレン。種類の違った赤が、しっかりとした足取りで此方へ向かってくる。近づくにつれ、カレンの方は耐えるように視線を伏せていた。
「…ゼロ」
ゼロを見上げるなり、コーネリアは鋭い眼光で睨みつけた。ゼロは怯みもせず、コーネリアを見下ろす。
カレンは何かを恐れているかのように、ゼロとは目を合わさなかった。
「今、貴様に問おう」
黒光りするライフルを掲げ、高らかに皇女は謳う。照準は定められていない。
「…ほう、何を」
「貴様は、何者だ」
「私はゼロ。…愚問ですな、コーネリア殿下」
鼻で笑うように腰に手を当てるゼロに、コーネリアの眉間が更に険しくなる。誰もが二人の対峙を固唾を飲んで見守っていた。彼は、あそこでゼロの姿をしている男は、一体何者なのか。ゼロの正体は衆知、ルルーシュである。それは実際に彼の仮面を脱ぐ姿を目撃した騎士団が一番よく知っている。賑わえば会話など聞こえないくらいの人数が通りに集まっているはずなのに、誰一人として、声を上げる者はいない。まるで誰もいなくなった街のように、閑散としていた。ただ唯一聴こえるのは、幼い少女の嗚咽だけだ。
「弱者に味方し強者を罰する、人々の救世主。ゼロはその象徴であると、世界にお伝えしたはずだが。
象徴に個人という概念は存在しない。コーネリア、聡明な貴公は一体どのような答えをお望みか」
コーネリアは押し黙った。ライフルを下ろし、そして、その眼光も仕舞い込んだ。
それを合図にか、ゼロは両腕を十字架のように広げ、高らかに声を上げた。
「人々よ!悪逆皇帝ルルーシュ・ヴィ・ブリタニアは今ここに亡びた!世界はフレイヤという脅威から解放される…」
嘗てルルーシュ・ヴィ・ブリタニアの所有していた剣を引き抜き、天上へ掲げる。
「ルルーシュ皇帝の死を礎に、強者が弱者を虐げない、優しい世界を作るため、私は全力を注ごう」
二度目の歓声が、上がる。
ゼロ!ゼロ!ゼロ!ゼロ!――皆が救世主の名を讃え、叫び、尊び、死に逝く者を、冷然と突き放した。
仮面の下で、緑の双眸に涙を浮かべながら、ゼロは笑う。
コーネリアは気付いていた。彼は自分と話してから一度も、下を、ナナリーに抱かれ、カレンが難しそうな顔で見つめるルルーシュを見下ろしていない。きっと、この後も、この歓声が止むまで、彼が下を見ることはないのだろう。
きっと、彼を知る者は、ルルーシュとあの男を知る者は、ゼロの正体に気付いている。解放した瞬間、カレンは言った。「あれはゼロだ」と。泣きそうな顔をして、強く断言した。藤堂は何も言わず、苦しげに目を伏せていた。
真相はわからない。ただ、彼らが何をしようとしていたかというのは、今この状況を見れば、明らかではないか。
きっと私の読みは当たっている。けれどそれを口にすることは、奴らの覚悟を冒涜することだ。例え、罪人であったとしても、それを、奴らの築こうとしていた夢まで奪う資格を持っているなどと言える程、己は傲慢でも、偽善者でもない。
世界は救われた。しかし彼らは、一部の人間を、たった少しの人間の心を、救うことはできなかったらしい。
胸が、痛いのだ。
たかが自分勝手な同情で気が狂えそうだと、コーネリアは拳を強く握った。
ルルーシュの遺体は反皇帝派に奪われる前に、夜明けか夕暮れか、暗がりの空の下、しめやかに埋葬された。そこの墓碑に刻まれているのは、彼の名ではなく、彼の騎士であった「枢木スザク」の名が記されている。悪逆皇帝の墓など、建てたところでどうせ扱いは決まっているのだ。それならば、公には海に流したとでも伝えて、誰も掘り返すことがなさそうな無人の墓碑の下に埋葬してやる方がゼロの気持ちは晴れた。今だけは仮面を脱ぎ捨て、口元の黒いマスクだけで、身丈の半分程のシャベルを手に、ゼロは一人墓を荒らした。漸く土から棺の表面が現れた頃には、あたりはすっかり真っ暗で、頭上には星々が煌いている。漸くそこで、ゼロは今が夜であることに気付いた。
墓碑の下に埋葬されていた、枯れかけの花が詰められた空っぽの棺を見つめながら、ほっと息をつく。傍らに毛布で大事そうに包めていた力の入らないルルーシュの身体を抱き上げ、ゼロはそこに寝かしつけた。ルルーシュの顔は酷く穏やかだ。特に顔の筋肉を後から弄ったわけではないが、きっと、彼は満足だったのだろう。最期に看取られたのが最愛の妹だったからかも知れない。彼女の慟哭を思い出して、ゼロは強く目を瞑った。
泣いてはいけない。全てわかった上でやったことだ。
枯れた花に囲まれて眠るルルーシュは、本当にただ寝ているようで、しかし、彼を囲む萎れた花は、彼の死を現実に反映しているようだ。出来ることなら、新しい花を添えてやりたいがそれは出来そうにない。時間はもう残されていない。長らく政庁を空けていれば、不審に思われるに違いないからだ。
「…君に手向ける花を持たなくて、すまない」
青白くなった頬に軽く触れると、嘗て主君を失った時のように冷たくて、また目頭が熱くなる。涙が滲むのを堪えながら、ゼロは黒塗りの決して軽くはない棺の蓋を、ゆっくり、ゆっくりと被せていく。金の名札にKURURUGI SUZAKU 2000-2018と刻まれたそれは、やがて完全に外界を隔絶した。表情のない黒をゼロは暫く見下ろして、もう一度シャベルを手に取った。
土の山から掬ったそれを、ザッ、ザッ、と手早く被せていく。ふと視界の端に、地面にいくつかの染みが出来ていたのが見えたが、それはきっと汗だと、ゼロは手を休めなかった。
見栄えは少し悪いかもしれないが、枢木スザクの墓は元通りだ。掘り返した土の跡が見られるものの、明日の昼間になれば湿った土も乾いて判別はつかなくなるだろう。
爪の間が土に汚れ、豆だらけになった手に黒革の手袋を装着し、足元の仮面を拾い上げながら、ゼロは墓碑に刻まれた名を撫でた。ここにルルーシュの名を刻んでやることは出来ない。ルルーシュもそれを望んでいないだろう。寧ろ彼は、きっとゼロは己の身体を海に捨てると思っていたに違いない。ゼロレクイエムにルルーシュの遺体の処分の計画などなかったが、これくらいの自由は許されるだろう。
やがてゼロは外套を翻し、仮面を被りながら踵を返した。
土に汚れたシャベルは、庭師から無断で拝借したものだ。夜明けと共にこっそり返しておくとしよう。
車椅子に座る初代ブリタニア合衆国大統領となった少女は、目の前の黒色を腫れぼったい目で見上げた。この時、ルルーシュの遺体が入ったとされている棺を太平洋の海に沈めた後だった。尤も、中身が空虚だと知っているのはゼロだけだ。
「思い出話を、聞いて下さいますか」
仮面の男、ゼロは黙して頷いた。ナナリーは柔らかく微笑んで見せようとしたが、失敗してしまい、結局下手に顔を歪めてしまうこととなってしまった。
「私の短い人生の中で、一番幸せだった頃は、このアリエス離宮でお母様とお兄様と一緒に住んでいたときです」
太陽の柔らかな光が降り注ぐバラ園を見渡して、「全く変わっていないのですね」とうっとりと呟くが、その表情に落ちる影はどうしても拭えない。事実ナナリーの手は震えていた。震えながら、フレアスカートの裾を堪えるように握り締めている。ゼロはそれに気付いていたが、特に言葉をかけることはない。
そんな彼に、ナナリーは「やはり」、と現実を思い知らされるのだ。彼の纏う雰囲気の根本は変わってはいないが、その振る舞いは、以前の彼よりも温度を更に低くしたようなものだ。手を握っても、手袋越しの彼の真意はわからない。自分が手袋を取るように言えば、きっと彼は何も言わず取り去るのだろう。しかし、そうしたことは一度もない。ナナリーにはその手を握られる自信がまだなかった。枢木スザクを殺し、兄ルルーシュを殺した彼の手を握ることは、どうしても。
「それと同じくらい幸せだと思ったのは、初めて日本に住んだときです。暮らしはこことは全く違って、私はいつもお兄様に頼りっきりだったのですけど…そこで会った私達の初めての友達が、スザクさんでした」
ナナリーは探るようにゼロを注意深く見つめたが、彼に反応はなかった。
「スザクさんは、今まで出会った人達とは違って、元気で、人を惹きつける磁石を持っているんじゃないかと思うくらい、不思議な人でした。私はその頃、色々なことがショックで笑えなかったのですが、スザクさんが笑うと、不思議と、私も笑えるようになって。お兄様はびっくりしていました。それから、スザクさんはお兄様もずっと笑っていなかったって教えてくれたんです。私は自分のことに精一杯で、目が見えないとしても、そのことに気付けなかったことがショックでした。けれど、その後、お兄様は笑ったんです」
声だけしかわからなかったけれど、確かに。
「それからは、戦争でスザクさんとは離れ離れになってしまいました。お兄様と私は、きっとあの人は生きていると信じていました。それから…もう、二年も前になるのですね。突然スザクさんが学園に転入してきて、本当に、びっくりして。…嬉しかった」
ナナリーはその時触れた手を大事そうに握り締めた。
「お兄様も、何かと私を理由に食事に誘っていたようですけど、本当は、お兄様の方が舞い上がってたんです。本当に嬉しそうで、私も勿論嬉しくって。……でも、それもあっという間に…。ブラックリベリオンの後、スザクさんは少し、寂しそうにされることがあって…それでも私は、ユフィ姉様のようにあの方を癒してあげることはできなかった。スザクさんは私達を助けてくれたのに…私はエリア11を昇格させることしか、スザクさんを、助けることはできなかった」
気付いたら、知らない間に、知らないところで、私の手の届かないところで、全ては後戻りできない方向へと進んでいた。
「シュナイゼル兄様にギアスのことを聞いて……お兄様がゼロで、人を操っていたことを知って…私は止めなきゃいけないと思いました。たとえ、お兄様やスザクさんを…傷つけることになっても、そのやり方は間違っていると、伝えたかった。
でも、やっぱり何も知らないでいたのは私の方。
お兄様とスザクさんはずるいです。…私を置いて、ずっと先に歩いていってしまうの。…スザクさん」
ナナリーは伏せていた瞳をゼロの仮面へ向けた。
「私、八年ぶりにお兄様のお顔を見たのです。ずっと昔から変わっていなくて、でも、昔のように優しく笑っていらっしゃらなかった。けれど、最期は、最期は微笑んでくださった。昔と…同じように…。
でも、私は…私は…スザクさんの姿を知らないんです」
両手を握り締めているナナリーの双眸からは一筋、二筋と涙が零れた。一度決壊してしまったそれは、もう止めることは出来ない。
すると、ゼロは漸くナナリーへ身体ごと振り向いた。
「写真や映像がありましょう」、無慈悲な言葉を、エフェクター越しの声で告げた。
ナナリーはいいえ、いいえと首を激しく横に振る。
けれどゼロは、首を縦にも横にも振らずに、冷酷と取られても仕方ないような言葉を吐き続けた。
「枢木スザクは死んだ。墓碑の下、安らかに眠っていることでしょう」
ナナリーは涙でぼやける視界の中で、成長したスザクが柔らかく微笑んでいるのが見えた気がした。
ナナリーは、ルルーシュ・ヴィ・ブリタニアを海に葬った日以来、殆ど弱音は吐かなくなった。
笑顔で民衆の手に応え、会議に出席し、しっかりと自分の思いや主張を伝える。その際には必ず、事前にゼロとシュナイゼルに提案し、メリットとデメリットを照らし合わせ、自国にとってどうすれば有益となり、不利な状況を回避できるか、同時に他国を卑下することなく、協力という形で話を進めるにはどうすればいいか。こういう時、殆ど頼りになるのはシュナイゼルだ。彼はゼロの命なら何でも従った。ゼロが従うナナリーの”頼み”にも嫌な顔一つせず引き受けた。彼の紫色の瞳は常にギアスの痕跡である赤色で縁取られている。ナナリーはそれを見て哀しげな顔をするが、政治力に置いて、あのルルーシュよりも優れているとされる彼の力は必要だった。けれどナナリーは命令をしない。頼む、という形で手渡す。そしてシュナイゼルのことを、未だシュナイゼル兄様と呼んだ。ゼロは、シュナイゼルと呼んだ。無論、当の本人は嫌な顔一つしない。
「来月十日、日本で各国首脳会議があります。ご出席なさるのは、今回の議長の合衆国日本より扇首相、合衆国中華より黎星刻、合衆国インドより…」
文官のスケジュール報告に、ナナリーは二言で頷いた。下がっても宜しいですよ、と促されると、文官は深く頭を下げ、黒革の分厚い手帳を手に執務室を去った。
文官の声に耳を傾けていたゼロは、ふと背後の大きな窓の外を見遣る。見事な庭が広がる世界に、鳥が何羽か木に止まっていた。緑生い茂る芝生はふかふかしていそうで、きっと寝転んだらすぐにでも眠ってしまえそうだ。シュナイゼルが傍に近寄り、ゼロ様、と声を掛けた。
「なんだ」
「昼の休憩時間になりました。ナナリー閣下も、今日の仕事はこれでおしまいです」
「ああ…そうだったな」
ナナリーの立派な机の上には、きちんと整理された書類がまとめて置かれていた。今日は特に会議もない。ナナリーにとっては久々にゆっくり寛げる午後となりそうだ。
「ゼロさん。宜しければ、この後一緒にお茶でもしませんか。シュナイゼル兄様も」
「ええ、構いませんよ」
「ナナリー、私は別に構わないのだけどね。ゼロ様、私がご一緒しても宜しいのですか」
「ナナリー閣下がそう言うのであれば、私は構わない」
シュナイゼルは仕事以外では、ナナリーのことを妹として接した。余りにも自然だ。考えて見れば当たり前なのかもしれない。彼が強制されていることはゼロの下につくことであり、ナナリーの下につくことではない。だからこそ、ゼロはシュナイゼルを絶対遵守させて置きながら時折疑う。いつか自分の命を破り、ナナリーに刃を向けたりはしないか。ゼロは最初に告げた。「自分は王になる気はない」と。シュナイゼルは承諾した。しかしそれは守られるのだろうか。例え、ギアスの力であったとしても。彼と行動するようになってからかれこれ半年は経つが、未だに不信感は拭えないでいた。
「けれど、まずはこの書類を届けなければなりませんね」
「私が行きましょう。シュナイゼル、半分持ってくれ」
辞書を三冊重ねたくらいの分量はゼロにとってさして重荷ではなかったが、シュナイゼルをここに残す理由を作りたくはなかった。
「すみません。ありがとう御座います。では、お茶とお菓子を用意をして待っていますね。後ほどラウンジで」
「ええ、楽しみにしていますよ。…行くぞ」
「畏まりました」
きっとこの瞬間、シュナイゼルの瞳に縁取られた赤が一層深まったことだろう。ゼロは振り返りもせずそう思った。
廊下に出遣ると、進行方向に二つの白の燕尾服を見かけた。ゼロとシュナイゼルは丁度その手前で曲がる予定なのだが、この距離だと鉢合わせは免れないだろう。とはいえ、避ける理由も持ち合わせてはいない。
ほうら、見てみろ。白の燕尾服を纏った片方の長身が、あからさまな負の感情を曝け出した。それが憎しみか、敵意か、それとも不安かは分からないが、ゼロは彼のこの顔が好きではない。かといって嫌いでもない。それでいい、とどこかで納得しているからかもしれない。
「これはこれは、仮面の殿方。雑用ですか?」
九十八代目皇帝陛下の直属の騎士として第九席に名を連ねていた女傑、ノネット・エニアグラム卿はだっはっは、と豪快に笑った。現在は大統領閣下直属のガードとして落ち着いている。それでいて昔からの騎士服を脱ごうとしないところは、やはり強い意志と誇りか。彼女と親しい第二皇女、コーネリアの先輩だけあって、そういうところは似ていた。
「そのようなものです。急ぎますので、これにて」
「おやおや、随分連れないですねぇ。そうだ、今度一杯しませんか。貴方と語らうのはとても面白そうだ!」
「…考えておきましょう」
「楽しみにしていますよ」
こういう態度は昔と変わらずで本当に冷や冷やさせられる。なんとなく気迫で押し負かされるのだ。
去り際に気付かれないよう溜息をついて、後ろを歩くシュナイゼルがくすっと笑ったのを背中で聞いた。
「エニアグラム卿は苦手かい」
そういう彼の瞳は赤く縁取られていない。こういう時、ゼロの心臓はいつも止まりそうになる。
「……ああ、そうだな」
黒色と白色の背中を見送っていた笑顔をさっと消して、ノネットは頭上の金髪頭を睨みつけた。
「ジノ、そのあからさまな態度はどうにかならんのか」
「何かおかしかったですか?」
「半年前からずっと、お前が正常だったことなどないがな」
心底呆れたように罵るノネットに、ジノはむっと顔を顰めた。半年前と言えば、ルルーシュがゼロによって殺された時期だ。
「…一体何が不満だ。彼は窮地に陥っていたお前たちを救った。そして世界をな。お前は、私達はそれが目的で戦っていたんだろう?本来なら感謝こそすれ、なのにお前はゼロを否定する」
「そんなことは」
「あるんだよ。こっちもいい加減イライラしてるんだ。そんなことでは、いつか任務にも支障が出るぞ」
長い脚を大股に開き、態と踵を鳴らしてジノを突き放していく。追いかけるどころか、ジノは段々歩みを止め、ついには立ち止まった。
段々距離が開き、あからさまに「こっちくんな」と怒っている背中に、ジノは追いかけることを諦めていた。
「エニアグラム卿は、彼が枢木スザクであるとお思いですか」
その脚は止まり、彼女は腰に片手をついて肩ごしに振り返った。
彼女の釣り目が、戦闘中のように鋭敏な眼差しに変わり、全身が無数の針に刺されるような緊張が走る。
「それが貴様の本音か。ジノ・ヴァインベルグ」
感情の篭らない、否、静かな怒りしか篭らない声が廊下に響く。
緊張で手が冷たくなっていくのをどこかで感じながら、外にも聴こえるんじゃないかと思うくらい心臓が脈打つ。
恐怖だ。
普段傍に置く者に対して敵意を向けない彼女から、初めて向けられる殺気。自分よりも長くこの道を歩いているその風格に敵う術もなく、ジノは息を詰まらせた。
彼女が怒っている理由が、本気でわからない。得体の知れない不安感が湧くのを覚えながら、ジノはノネットの言葉を待った。
すると彼女は、抑揚のない声で告げた。
「考える時間はたくさんあったろう。なのに貴様はあの日から一歩も進歩していないらしい。
そんなに認めたくないなら教えてやるが今回限りだ。枢木は死んだ。あいつはルルーシュと手を組んだ裏切り者だ。だから私達が殺した。……そのような愚問二度とするなよヴァインベルグ。実に不愉快だ」
愚問だと、不愉快だと片付けて、ノネットは颯爽と翻り去った。その強靭な後姿は後を追うことも許さない。
残されたジノは、彼女の背中が次の角を曲がるまで呆然と立ち竦んでいた。
混乱していたのだ。
彼女の言うことは紛うことなき真実である。自分でも頭では理解していたことだったが、彼を、ゼロを見ている内に…否、ルルーシュを殺したときのゼロの姿が脳裏に浮かぶ度に、面影を重ねてしまう。けれどスザクは死んでしまった。自分はランスロットが爆発する瞬間を見て、彼の墓が作られたことも民間の放送局の中継で知った。盛大でいて、どこか寂しい葬式と、ルルーシュによる唯一の騎士を労う演説。そして世界への声明。彼に対しクーデターを行った者は自分を含め、大半が監禁された。そして公開処刑当日、我々はゼロによって救われる。けれどゼロは、ルルーシュだ。しかしあのゼロは、ルルーシュではなかった。
ゼロの正体は明かされず仕舞いであったが、どちらにせよ世界は安定に向かっている。それでいい。それでいいんだと思っていても、思おうとしても、ジノは先へ進めないでいた。
ノネットと同様の任を負うものの、これも殆ど成り行きだ。クーデターを起こした時に守りたかった物、あの時確かに自分にとってそれはブリタニアだったのだから、ブリタニアに尽くすのは当然だった。自分自身もそうだと信じて疑わなかった。ルルーシュが死んだ時は、素直に世界が解放されたと喜んだ。
しかし日に日に、わからなくなるのだ。自分の知らないどこかで、自分が気付いていないうちに、何かが起きていたのではないか。それも、あの時だけではなくて、ずっと前からそれは起こっていたのではないか。
ただの予感だった。それでも、何故か否定できないでいる自分がいることに、ジノは混乱する。
自分はどこかで間違っていたのではないかという不安、根拠もないのに。
「どうして、私が間違っていると思うんだ…」
ルルーシュは悪だった。彼と手を組んだスザクもそうだ。彼らの暴挙に抗った我々は正しかったはずだ。
ゼロがスザクだと言うのなら、その根拠は。あの武人の動きは確かに彼なら可能な動きではあった。もしスザクが生きていたとして、どうして彼が共犯のルルーシュを殺すのか。世界を手に入れた王の騎士の権力を捨てるという大きなデメリットがある。しかも仮面を取ろうとしない辺り、不自然だ。恐怖に怯えていた人々による名誉を求めるのなら、素顔を明かすくらいはするのではないか。しかしこれは、ゼロの中身が別人な場合でも言える。素顔を明かせない理由があるはずだ。それが既に死んだ人物であるから、などと極論すぎる。中身がスザクであったとして、ならばどうして、彼はルルーシュ側についていたのか。彼を倒したいのなら、最初から敵対していればよかったはずなのに。
そこまで考えて、ジノは苦笑した。気がつけば、スザクが生きている場合ばかり考えている。最悪だ。
結論が出ない思考の海へ溺れるような感覚に、ジノは壁に背中を預けた。
そんな難しいこと言われてもわからない、という顔をした八年前のお前。人は、何か大切なものとか、目指すものがあるから頑張って生きているんだと、言い切ったお前。覚えているか、スザク。お前はあの頃何も知らず、無垢で、無邪気で、いつも俺達兄妹を救ってくれた。力になってくれた。
そんなお前に、俺は一体何をしてやれただろう。傷つけることしかできなかった気がするんだ。いや、そうなんだろうな。お前に嘘をついて、お前の大切なものを傷つけながら、俺は生きてきた。お前は…いいや、お前は何も悪くなかった。お前は、スザク。お前の人生を、最大限に利用して見せた。誰も巻き込まず、己だけを犠牲にして。俺には、決してできないことだ。だからお前が羨ましくもあり、嫉ましく、誇りに思う。
「気持ち悪いな」
ゼロの仮面を手に、スザクは笑った。
「何か言い残すことはないか、と尋ねたのはお前だろう。…全く、お前は本当に、やな奴だよ」
正装の白い肩を竦めて、目の前の“ゼロ”に扮装した“枢木スザクだった男”を、しっかりと目に焼き付けるようにルルーシュは瞬きを恐れた。同じ服を着ているはずなのに、物腰が違うだけで、こうも別人に見えてしまうものなのか。いや、それはきっと自分達が中身が誰であるかを知っているせいかもしれない。
「お前がそんなの着てるなんて、違和感ありありだな」
「着こなしたくないよ。…いや、それでも着こなさないといけないんだったね」
「ああ。約束は、守れよ」
ルルーシュも。
緩く微笑んで、スザクはゼロの仮面を顔面に覆った。これで、枢木スザクという男は、完全に死んだことになる。ゼロは象徴。民の前に仮面の下を一生晒すことなく、その一生を、全て世界に捧ぐ。世界が彼に救済を求め、彼は世界に応え続ける。その命の炎がかき消えるまで。
まさか、己の作った偶像に己が殺されるとは、あの頃は思いもしなかっただろう。ルルーシュはおかしくなって、口元が引き攣った。
「…あとでな、“ゼロ”」
「えぇ、悪逆皇帝ルルーシュ殿」
変声機を通して聴こえる声は、一年前のゼロとなんら変わりない。口調も、おかしいくらい、自分とそっくりだ。
彼は、まさしくゼロだ。
ルルーシュは更に笑みを濃くした。
「お前、演技上手くなったな」
無様に壇上を転げ落ちる姿は、なんと滑稽な最期か。
スザクは、否、ゼロは無慈悲に妹姫に抱かれながら息を引き取ったルルーシュ・ヴィ・ブリタニアを見下ろしていた。
あの時、倒れていく身体を抱き止めていてやりたかったと思うのは、まだ自分に良心が残っている証拠なのだろう。落ちていく背中に、らしくもなく手を伸ばしそうになって、剣に着いた血糊を振り払う振りをして誤魔化した。
仮面についた血痕は、風化し黒く染まっていく。皇帝の政治に恐れ戦き、反感を抱いていた組織が、コーネリアの指揮の下、ブリタニア軍を抑えていく。民衆も協力し、公開処刑を控えていた反逆者を解放していく。ナナリーとルルーシュに近づくものは誰一人としていない。
しかし、丁度道路の中央から歩いてくる人影を見つけて、ゼロは溜息をついた。
コーネリア・リ・ブリタニア。横に、紅月カレン。種類の違った赤が、しっかりとした足取りで此方へ向かってくる。近づくにつれ、カレンの方は耐えるように視線を伏せていた。
「…ゼロ」
ゼロを見上げるなり、コーネリアは鋭い眼光で睨みつけた。ゼロは怯みもせず、コーネリアを見下ろす。
カレンは何かを恐れているかのように、ゼロとは目を合わさなかった。
「今、貴様に問おう」
黒光りするライフルを掲げ、高らかに皇女は謳う。照準は定められていない。
「…ほう、何を」
「貴様は、何者だ」
「私はゼロ。…愚問ですな、コーネリア殿下」
鼻で笑うように腰に手を当てるゼロに、コーネリアの眉間が更に険しくなる。誰もが二人の対峙を固唾を飲んで見守っていた。彼は、あそこでゼロの姿をしている男は、一体何者なのか。ゼロの正体は衆知、ルルーシュである。それは実際に彼の仮面を脱ぐ姿を目撃した騎士団が一番よく知っている。賑わえば会話など聞こえないくらいの人数が通りに集まっているはずなのに、誰一人として、声を上げる者はいない。まるで誰もいなくなった街のように、閑散としていた。ただ唯一聴こえるのは、幼い少女の嗚咽だけだ。
「弱者に味方し強者を罰する、人々の救世主。ゼロはその象徴であると、世界にお伝えしたはずだが。
象徴に個人という概念は存在しない。コーネリア、聡明な貴公は一体どのような答えをお望みか」
コーネリアは押し黙った。ライフルを下ろし、そして、その眼光も仕舞い込んだ。
それを合図にか、ゼロは両腕を十字架のように広げ、高らかに声を上げた。
「人々よ!悪逆皇帝ルルーシュ・ヴィ・ブリタニアは今ここに亡びた!世界はフレイヤという脅威から解放される…」
嘗てルルーシュ・ヴィ・ブリタニアの所有していた剣を引き抜き、天上へ掲げる。
「ルルーシュ皇帝の死を礎に、強者が弱者を虐げない、優しい世界を作るため、私は全力を注ごう」
二度目の歓声が、上がる。
ゼロ!ゼロ!ゼロ!ゼロ!――皆が救世主の名を讃え、叫び、尊び、死に逝く者を、冷然と突き放した。
仮面の下で、緑の双眸に涙を浮かべながら、ゼロは笑う。
コーネリアは気付いていた。彼は自分と話してから一度も、下を、ナナリーに抱かれ、カレンが難しそうな顔で見つめるルルーシュを見下ろしていない。きっと、この後も、この歓声が止むまで、彼が下を見ることはないのだろう。
きっと、彼を知る者は、ルルーシュとあの男を知る者は、ゼロの正体に気付いている。解放した瞬間、カレンは言った。「あれはゼロだ」と。泣きそうな顔をして、強く断言した。藤堂は何も言わず、苦しげに目を伏せていた。
真相はわからない。ただ、彼らが何をしようとしていたかというのは、今この状況を見れば、明らかではないか。
きっと私の読みは当たっている。けれどそれを口にすることは、奴らの覚悟を冒涜することだ。例え、罪人であったとしても、それを、奴らの築こうとしていた夢まで奪う資格を持っているなどと言える程、己は傲慢でも、偽善者でもない。
世界は救われた。しかし彼らは、一部の人間を、たった少しの人間の心を、救うことはできなかったらしい。
胸が、痛いのだ。
たかが自分勝手な同情で気が狂えそうだと、コーネリアは拳を強く握った。
ルルーシュの遺体は反皇帝派に奪われる前に、夜明けか夕暮れか、暗がりの空の下、しめやかに埋葬された。そこの墓碑に刻まれているのは、彼の名ではなく、彼の騎士であった「枢木スザク」の名が記されている。悪逆皇帝の墓など、建てたところでどうせ扱いは決まっているのだ。それならば、公には海に流したとでも伝えて、誰も掘り返すことがなさそうな無人の墓碑の下に埋葬してやる方がゼロの気持ちは晴れた。今だけは仮面を脱ぎ捨て、口元の黒いマスクだけで、身丈の半分程のシャベルを手に、ゼロは一人墓を荒らした。漸く土から棺の表面が現れた頃には、あたりはすっかり真っ暗で、頭上には星々が煌いている。漸くそこで、ゼロは今が夜であることに気付いた。
墓碑の下に埋葬されていた、枯れかけの花が詰められた空っぽの棺を見つめながら、ほっと息をつく。傍らに毛布で大事そうに包めていた力の入らないルルーシュの身体を抱き上げ、ゼロはそこに寝かしつけた。ルルーシュの顔は酷く穏やかだ。特に顔の筋肉を後から弄ったわけではないが、きっと、彼は満足だったのだろう。最期に看取られたのが最愛の妹だったからかも知れない。彼女の慟哭を思い出して、ゼロは強く目を瞑った。
泣いてはいけない。全てわかった上でやったことだ。
枯れた花に囲まれて眠るルルーシュは、本当にただ寝ているようで、しかし、彼を囲む萎れた花は、彼の死を現実に反映しているようだ。出来ることなら、新しい花を添えてやりたいがそれは出来そうにない。時間はもう残されていない。長らく政庁を空けていれば、不審に思われるに違いないからだ。
「…君に手向ける花を持たなくて、すまない」
青白くなった頬に軽く触れると、嘗て主君を失った時のように冷たくて、また目頭が熱くなる。涙が滲むのを堪えながら、ゼロは黒塗りの決して軽くはない棺の蓋を、ゆっくり、ゆっくりと被せていく。金の名札にKURURUGI SUZAKU 2000-2018と刻まれたそれは、やがて完全に外界を隔絶した。表情のない黒をゼロは暫く見下ろして、もう一度シャベルを手に取った。
土の山から掬ったそれを、ザッ、ザッ、と手早く被せていく。ふと視界の端に、地面にいくつかの染みが出来ていたのが見えたが、それはきっと汗だと、ゼロは手を休めなかった。
見栄えは少し悪いかもしれないが、枢木スザクの墓は元通りだ。掘り返した土の跡が見られるものの、明日の昼間になれば湿った土も乾いて判別はつかなくなるだろう。
爪の間が土に汚れ、豆だらけになった手に黒革の手袋を装着し、足元の仮面を拾い上げながら、ゼロは墓碑に刻まれた名を撫でた。ここにルルーシュの名を刻んでやることは出来ない。ルルーシュもそれを望んでいないだろう。寧ろ彼は、きっとゼロは己の身体を海に捨てると思っていたに違いない。ゼロレクイエムにルルーシュの遺体の処分の計画などなかったが、これくらいの自由は許されるだろう。
やがてゼロは外套を翻し、仮面を被りながら踵を返した。
土に汚れたシャベルは、庭師から無断で拝借したものだ。夜明けと共にこっそり返しておくとしよう。
車椅子に座る初代ブリタニア合衆国大統領となった少女は、目の前の黒色を腫れぼったい目で見上げた。この時、ルルーシュの遺体が入ったとされている棺を太平洋の海に沈めた後だった。尤も、中身が空虚だと知っているのはゼロだけだ。
「思い出話を、聞いて下さいますか」
仮面の男、ゼロは黙して頷いた。ナナリーは柔らかく微笑んで見せようとしたが、失敗してしまい、結局下手に顔を歪めてしまうこととなってしまった。
「私の短い人生の中で、一番幸せだった頃は、このアリエス離宮でお母様とお兄様と一緒に住んでいたときです」
太陽の柔らかな光が降り注ぐバラ園を見渡して、「全く変わっていないのですね」とうっとりと呟くが、その表情に落ちる影はどうしても拭えない。事実ナナリーの手は震えていた。震えながら、フレアスカートの裾を堪えるように握り締めている。ゼロはそれに気付いていたが、特に言葉をかけることはない。
そんな彼に、ナナリーは「やはり」、と現実を思い知らされるのだ。彼の纏う雰囲気の根本は変わってはいないが、その振る舞いは、以前の彼よりも温度を更に低くしたようなものだ。手を握っても、手袋越しの彼の真意はわからない。自分が手袋を取るように言えば、きっと彼は何も言わず取り去るのだろう。しかし、そうしたことは一度もない。ナナリーにはその手を握られる自信がまだなかった。枢木スザクを殺し、兄ルルーシュを殺した彼の手を握ることは、どうしても。
「それと同じくらい幸せだと思ったのは、初めて日本に住んだときです。暮らしはこことは全く違って、私はいつもお兄様に頼りっきりだったのですけど…そこで会った私達の初めての友達が、スザクさんでした」
ナナリーは探るようにゼロを注意深く見つめたが、彼に反応はなかった。
「スザクさんは、今まで出会った人達とは違って、元気で、人を惹きつける磁石を持っているんじゃないかと思うくらい、不思議な人でした。私はその頃、色々なことがショックで笑えなかったのですが、スザクさんが笑うと、不思議と、私も笑えるようになって。お兄様はびっくりしていました。それから、スザクさんはお兄様もずっと笑っていなかったって教えてくれたんです。私は自分のことに精一杯で、目が見えないとしても、そのことに気付けなかったことがショックでした。けれど、その後、お兄様は笑ったんです」
声だけしかわからなかったけれど、確かに。
「それからは、戦争でスザクさんとは離れ離れになってしまいました。お兄様と私は、きっとあの人は生きていると信じていました。それから…もう、二年も前になるのですね。突然スザクさんが学園に転入してきて、本当に、びっくりして。…嬉しかった」
ナナリーはその時触れた手を大事そうに握り締めた。
「お兄様も、何かと私を理由に食事に誘っていたようですけど、本当は、お兄様の方が舞い上がってたんです。本当に嬉しそうで、私も勿論嬉しくって。……でも、それもあっという間に…。ブラックリベリオンの後、スザクさんは少し、寂しそうにされることがあって…それでも私は、ユフィ姉様のようにあの方を癒してあげることはできなかった。スザクさんは私達を助けてくれたのに…私はエリア11を昇格させることしか、スザクさんを、助けることはできなかった」
気付いたら、知らない間に、知らないところで、私の手の届かないところで、全ては後戻りできない方向へと進んでいた。
「シュナイゼル兄様にギアスのことを聞いて……お兄様がゼロで、人を操っていたことを知って…私は止めなきゃいけないと思いました。たとえ、お兄様やスザクさんを…傷つけることになっても、そのやり方は間違っていると、伝えたかった。
でも、やっぱり何も知らないでいたのは私の方。
お兄様とスザクさんはずるいです。…私を置いて、ずっと先に歩いていってしまうの。…スザクさん」
ナナリーは伏せていた瞳をゼロの仮面へ向けた。
「私、八年ぶりにお兄様のお顔を見たのです。ずっと昔から変わっていなくて、でも、昔のように優しく笑っていらっしゃらなかった。けれど、最期は、最期は微笑んでくださった。昔と…同じように…。
でも、私は…私は…スザクさんの姿を知らないんです」
両手を握り締めているナナリーの双眸からは一筋、二筋と涙が零れた。一度決壊してしまったそれは、もう止めることは出来ない。
すると、ゼロは漸くナナリーへ身体ごと振り向いた。
「写真や映像がありましょう」、無慈悲な言葉を、エフェクター越しの声で告げた。
ナナリーはいいえ、いいえと首を激しく横に振る。
けれどゼロは、首を縦にも横にも振らずに、冷酷と取られても仕方ないような言葉を吐き続けた。
「枢木スザクは死んだ。墓碑の下、安らかに眠っていることでしょう」
ナナリーは涙でぼやける視界の中で、成長したスザクが柔らかく微笑んでいるのが見えた気がした。
ナナリーは、ルルーシュ・ヴィ・ブリタニアを海に葬った日以来、殆ど弱音は吐かなくなった。
笑顔で民衆の手に応え、会議に出席し、しっかりと自分の思いや主張を伝える。その際には必ず、事前にゼロとシュナイゼルに提案し、メリットとデメリットを照らし合わせ、自国にとってどうすれば有益となり、不利な状況を回避できるか、同時に他国を卑下することなく、協力という形で話を進めるにはどうすればいいか。こういう時、殆ど頼りになるのはシュナイゼルだ。彼はゼロの命なら何でも従った。ゼロが従うナナリーの”頼み”にも嫌な顔一つせず引き受けた。彼の紫色の瞳は常にギアスの痕跡である赤色で縁取られている。ナナリーはそれを見て哀しげな顔をするが、政治力に置いて、あのルルーシュよりも優れているとされる彼の力は必要だった。けれどナナリーは命令をしない。頼む、という形で手渡す。そしてシュナイゼルのことを、未だシュナイゼル兄様と呼んだ。ゼロは、シュナイゼルと呼んだ。無論、当の本人は嫌な顔一つしない。
「来月十日、日本で各国首脳会議があります。ご出席なさるのは、今回の議長の合衆国日本より扇首相、合衆国中華より黎星刻、合衆国インドより…」
文官のスケジュール報告に、ナナリーは二言で頷いた。下がっても宜しいですよ、と促されると、文官は深く頭を下げ、黒革の分厚い手帳を手に執務室を去った。
文官の声に耳を傾けていたゼロは、ふと背後の大きな窓の外を見遣る。見事な庭が広がる世界に、鳥が何羽か木に止まっていた。緑生い茂る芝生はふかふかしていそうで、きっと寝転んだらすぐにでも眠ってしまえそうだ。シュナイゼルが傍に近寄り、ゼロ様、と声を掛けた。
「なんだ」
「昼の休憩時間になりました。ナナリー閣下も、今日の仕事はこれでおしまいです」
「ああ…そうだったな」
ナナリーの立派な机の上には、きちんと整理された書類がまとめて置かれていた。今日は特に会議もない。ナナリーにとっては久々にゆっくり寛げる午後となりそうだ。
「ゼロさん。宜しければ、この後一緒にお茶でもしませんか。シュナイゼル兄様も」
「ええ、構いませんよ」
「ナナリー、私は別に構わないのだけどね。ゼロ様、私がご一緒しても宜しいのですか」
「ナナリー閣下がそう言うのであれば、私は構わない」
シュナイゼルは仕事以外では、ナナリーのことを妹として接した。余りにも自然だ。考えて見れば当たり前なのかもしれない。彼が強制されていることはゼロの下につくことであり、ナナリーの下につくことではない。だからこそ、ゼロはシュナイゼルを絶対遵守させて置きながら時折疑う。いつか自分の命を破り、ナナリーに刃を向けたりはしないか。ゼロは最初に告げた。「自分は王になる気はない」と。シュナイゼルは承諾した。しかしそれは守られるのだろうか。例え、ギアスの力であったとしても。彼と行動するようになってからかれこれ半年は経つが、未だに不信感は拭えないでいた。
「けれど、まずはこの書類を届けなければなりませんね」
「私が行きましょう。シュナイゼル、半分持ってくれ」
辞書を三冊重ねたくらいの分量はゼロにとってさして重荷ではなかったが、シュナイゼルをここに残す理由を作りたくはなかった。
「すみません。ありがとう御座います。では、お茶とお菓子を用意をして待っていますね。後ほどラウンジで」
「ええ、楽しみにしていますよ。…行くぞ」
「畏まりました」
きっとこの瞬間、シュナイゼルの瞳に縁取られた赤が一層深まったことだろう。ゼロは振り返りもせずそう思った。
廊下に出遣ると、進行方向に二つの白の燕尾服を見かけた。ゼロとシュナイゼルは丁度その手前で曲がる予定なのだが、この距離だと鉢合わせは免れないだろう。とはいえ、避ける理由も持ち合わせてはいない。
ほうら、見てみろ。白の燕尾服を纏った片方の長身が、あからさまな負の感情を曝け出した。それが憎しみか、敵意か、それとも不安かは分からないが、ゼロは彼のこの顔が好きではない。かといって嫌いでもない。それでいい、とどこかで納得しているからかもしれない。
「これはこれは、仮面の殿方。雑用ですか?」
九十八代目皇帝陛下の直属の騎士として第九席に名を連ねていた女傑、ノネット・エニアグラム卿はだっはっは、と豪快に笑った。現在は大統領閣下直属のガードとして落ち着いている。それでいて昔からの騎士服を脱ごうとしないところは、やはり強い意志と誇りか。彼女と親しい第二皇女、コーネリアの先輩だけあって、そういうところは似ていた。
「そのようなものです。急ぎますので、これにて」
「おやおや、随分連れないですねぇ。そうだ、今度一杯しませんか。貴方と語らうのはとても面白そうだ!」
「…考えておきましょう」
「楽しみにしていますよ」
こういう態度は昔と変わらずで本当に冷や冷やさせられる。なんとなく気迫で押し負かされるのだ。
去り際に気付かれないよう溜息をついて、後ろを歩くシュナイゼルがくすっと笑ったのを背中で聞いた。
「エニアグラム卿は苦手かい」
そういう彼の瞳は赤く縁取られていない。こういう時、ゼロの心臓はいつも止まりそうになる。
「……ああ、そうだな」
黒色と白色の背中を見送っていた笑顔をさっと消して、ノネットは頭上の金髪頭を睨みつけた。
「ジノ、そのあからさまな態度はどうにかならんのか」
「何かおかしかったですか?」
「半年前からずっと、お前が正常だったことなどないがな」
心底呆れたように罵るノネットに、ジノはむっと顔を顰めた。半年前と言えば、ルルーシュがゼロによって殺された時期だ。
「…一体何が不満だ。彼は窮地に陥っていたお前たちを救った。そして世界をな。お前は、私達はそれが目的で戦っていたんだろう?本来なら感謝こそすれ、なのにお前はゼロを否定する」
「そんなことは」
「あるんだよ。こっちもいい加減イライラしてるんだ。そんなことでは、いつか任務にも支障が出るぞ」
長い脚を大股に開き、態と踵を鳴らしてジノを突き放していく。追いかけるどころか、ジノは段々歩みを止め、ついには立ち止まった。
段々距離が開き、あからさまに「こっちくんな」と怒っている背中に、ジノは追いかけることを諦めていた。
「エニアグラム卿は、彼が枢木スザクであるとお思いですか」
その脚は止まり、彼女は腰に片手をついて肩ごしに振り返った。
彼女の釣り目が、戦闘中のように鋭敏な眼差しに変わり、全身が無数の針に刺されるような緊張が走る。
「それが貴様の本音か。ジノ・ヴァインベルグ」
感情の篭らない、否、静かな怒りしか篭らない声が廊下に響く。
緊張で手が冷たくなっていくのをどこかで感じながら、外にも聴こえるんじゃないかと思うくらい心臓が脈打つ。
恐怖だ。
普段傍に置く者に対して敵意を向けない彼女から、初めて向けられる殺気。自分よりも長くこの道を歩いているその風格に敵う術もなく、ジノは息を詰まらせた。
彼女が怒っている理由が、本気でわからない。得体の知れない不安感が湧くのを覚えながら、ジノはノネットの言葉を待った。
すると彼女は、抑揚のない声で告げた。
「考える時間はたくさんあったろう。なのに貴様はあの日から一歩も進歩していないらしい。
そんなに認めたくないなら教えてやるが今回限りだ。枢木は死んだ。あいつはルルーシュと手を組んだ裏切り者だ。だから私達が殺した。……そのような愚問二度とするなよヴァインベルグ。実に不愉快だ」
愚問だと、不愉快だと片付けて、ノネットは颯爽と翻り去った。その強靭な後姿は後を追うことも許さない。
残されたジノは、彼女の背中が次の角を曲がるまで呆然と立ち竦んでいた。
混乱していたのだ。
彼女の言うことは紛うことなき真実である。自分でも頭では理解していたことだったが、彼を、ゼロを見ている内に…否、ルルーシュを殺したときのゼロの姿が脳裏に浮かぶ度に、面影を重ねてしまう。けれどスザクは死んでしまった。自分はランスロットが爆発する瞬間を見て、彼の墓が作られたことも民間の放送局の中継で知った。盛大でいて、どこか寂しい葬式と、ルルーシュによる唯一の騎士を労う演説。そして世界への声明。彼に対しクーデターを行った者は自分を含め、大半が監禁された。そして公開処刑当日、我々はゼロによって救われる。けれどゼロは、ルルーシュだ。しかしあのゼロは、ルルーシュではなかった。
ゼロの正体は明かされず仕舞いであったが、どちらにせよ世界は安定に向かっている。それでいい。それでいいんだと思っていても、思おうとしても、ジノは先へ進めないでいた。
ノネットと同様の任を負うものの、これも殆ど成り行きだ。クーデターを起こした時に守りたかった物、あの時確かに自分にとってそれはブリタニアだったのだから、ブリタニアに尽くすのは当然だった。自分自身もそうだと信じて疑わなかった。ルルーシュが死んだ時は、素直に世界が解放されたと喜んだ。
しかし日に日に、わからなくなるのだ。自分の知らないどこかで、自分が気付いていないうちに、何かが起きていたのではないか。それも、あの時だけではなくて、ずっと前からそれは起こっていたのではないか。
ただの予感だった。それでも、何故か否定できないでいる自分がいることに、ジノは混乱する。
自分はどこかで間違っていたのではないかという不安、根拠もないのに。
「どうして、私が間違っていると思うんだ…」
ルルーシュは悪だった。彼と手を組んだスザクもそうだ。彼らの暴挙に抗った我々は正しかったはずだ。
ゼロがスザクだと言うのなら、その根拠は。あの武人の動きは確かに彼なら可能な動きではあった。もしスザクが生きていたとして、どうして彼が共犯のルルーシュを殺すのか。世界を手に入れた王の騎士の権力を捨てるという大きなデメリットがある。しかも仮面を取ろうとしない辺り、不自然だ。恐怖に怯えていた人々による名誉を求めるのなら、素顔を明かすくらいはするのではないか。しかしこれは、ゼロの中身が別人な場合でも言える。素顔を明かせない理由があるはずだ。それが既に死んだ人物であるから、などと極論すぎる。中身がスザクであったとして、ならばどうして、彼はルルーシュ側についていたのか。彼を倒したいのなら、最初から敵対していればよかったはずなのに。
そこまで考えて、ジノは苦笑した。気がつけば、スザクが生きている場合ばかり考えている。最悪だ。
結論が出ない思考の海へ溺れるような感覚に、ジノは壁に背中を預けた。
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